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札幌南高校野球部 甲子園出場

第一報は道辰さんから知らされた  (2000年7月27日) 

イヤー
花ちゃんのご意見、さすがの松田氏もびっくり、どっきり
か弱い男性殿を労わりましょうか。
生物学てきに、女は強靭に出来ているようですから

ところで、南高が61年ぶりの南北海道優勝で、応援に力がはいりますね。

野球部OBの佐々木さんへ  五十嵐さんより (2000年7月28日)

南北海道大会、優勝おめでとう。
今朝の新聞報道は南校卒業生一同にとって、うれしい記事がいっぱい。
佐々木さん達の長い野球部の歴史を思うと、地元ではどんなにか大喜びでしょう。
この夏はこの いいニュースに燃えますね。

昨夜迄、私のトラブルメーカー発言によるメールがぶっとびました。
道辰さんニュースをありがとう。
皆、仲良く応援しましょう。

         南校に乾杯   那美子

南校甲子園出場に際して、肥田木君より(2000年7月29日)

昨日、電車の中で人の読んでいる新聞にちらっと札幌南 と出ていてびっくり。
志村さん、皆さん、これは快挙ですね。

「南高健児は玉藍城、血は踊る、血は踊る、
一騎当千の若者が〜〜ああ、一番鍛えし〜
腕試し、勝ったえ〜、勝ったえ〜!!」

南校の応援歌、覚えてますかね?

二番も

「勝つなら勝ってみろ、晴れ部隊、
勝たしゃせぬ、勝たしゃせぬ、
藻岩おろしに鍛えたる〜〜、
南高健児にあ、骨がある
勝ったえ〜、勝ったえ〜」

南高には一年しか居ませんでしたが、剣道部、 放送部、オーケストラ部と三つを目一杯楽しん だのが懐かしいです。
剣道部で上の応援歌を良く歌いました。

会社の近くの大船に南高出のママがやっている スナックがある。(中学は柏中らしい)
来週、帰りに寄って祝杯をあげようかと思います。

南校甲子園出場に際して、角田君より(2000年7月29日)

南高時代、応援歌を歌った機会は記憶に無いのだけれど、 歌詞を見ているとメロディを思い出しました。
そして次の校歌も。

村井君

五十嵐さん

大島君

橋本さん

7組の面々

朝に望む藻岩嶺に
夕べ河畔の豊平に
三年の春のいそしみを
共に励まし競いつつ
ああ若人のこの集い

年の半を降りうずむ
雪にきたえし精神は
堅忍不抜ゆるぎ無き
我が先人の旗印
ああつぎ行かんこの誇り

歴史は古りし学び舎に
世紀のいぶき高くして
希望あふるる自由の地
我等が使命謡わなん
ああ札南の我が母校


札南野球部
当時は母校などと言う認識は無かったけれど、 今になると札南は母校ですね、松田君、村井君、五十嵐さん、 卒業アルバムから若人時代の写真をピックアップしてみました。
7組は中央が松田君、一人おいて左が佐々木君、松田君の一人おいて右が私で、 一番右端の女性は平中出身の富永さんです。
40年会幹事の大島君と橋本さんも居ました。
そして那美式部殿、佐々木君は確かに野球部に居ました。
肥田木君は卒業時に居なかったので残念!

札幌南校、甲子園出場おめでとう。油田京子さんより (2000年7月30日) 

しかし、南高出身がメール友にこんなに多いとは知りませんでした。
肥田木さんの応援歌、ちょつとほろ酔いで、右手を振りながら、大きな声で・・・ 目に浮かぶようです。
角田さんの写真、いや〜皆さん青春真っ最中ですね〜 40年会で皆で歌いたいですね。   お祭り大好き人間ですから。

その頃、私は国体出場をめざして、毎日テニスの白球を追いかけていました。
授業中はひたすら寝て。  その仲間と毎年旅行をして、相変わらず笑い ころげています。
              仲間に入れず淋しい  お京より

南校甲子園出場ヤッター  渋谷恒子さんより (2000年7月31日) 

佐々木さん毎日嬉しくて仕事手に着かないのではないですか?
町中自分が出場するがごとく喜びに溢れていますネ
選手の親御さんは、飛び上がらんばかりの嬉しさでしょう。
OBとして応援に行きたいのではないですか!
私たちは南校を目の前にする南17条西7丁目に住んでいました。
昭和58年までいましたし息子も野球をしていたので色々なことが走馬燈のようにかけていきます。
子供について毎週野球に応援にいったり、新しいユニフォームができて写真を撮ったこと。
子供と一緒に青春していた気がします。
出来れば甲子園に行かせたいとおもいました。
転校と共に中学2年で野球はやめましたので、夢に終わりましたが・・・
どのスポーツもそうでしょうが、参加する以上はやはり勝利を味わいたいですよ!
めーる仲間に南校卒業生が「いっぱい」いるとのこと、この偉業にまたまた盛りあがりますね。
9月の「同期会」試合結果によって話題につきないでしょう。
社長嬉しさが伝わってきます。持つべきは友かなをメ〜ル友から感じました。

札南野球部の活躍について、角田君より (2000年7月31日) 

ここ何年か母校野球部について兄貴から話しは聞いていたのですが、まさか現実にな るなど思いも寄らず、聞いていた話は直ぐにもう一方の耳から抜けていました。
本日改めて兄貴から手紙を貰い、今回の快挙は決してフロックでないと確信しまし た。
兄貴の手紙は長いのでそのまま転記でなく、要点のみお知らせします。
南高は61年前の一中時代に次いで甲子園に行けることになったのですが、その61 年前に甲子園の土を踏んだOBのBさん(美園で耳鼻科の開業医をしているとのこと なので、佐々木忠繁君は判りますか)をOB会会長とし15年前頃に野球部後援会作 りをしたのがきっかけだったとか。
この働きは現在の松田監督(札南OB)の要請で 始まり、当時私の兄貴も松田監督の要請により幹事長として参画したとのことです。
兄貴達はその数年前に調布から実家に引っ越したのですが、前便の通り息子二人を甲 子園に送り出すなど高校野球に熱心であり、多分松田監督と同世代なのでしょう。
兄貴達OBは何度も監督や選手達とも話し合ったそうですが、昔のスパルタ練習でな く、選手達中心で指導者に相談しながら練習すると言う新しい自主的な方法を確立し て行ったようです。
そして10年位前からは札幌地区予選(4チーム)を殆ど毎年勝 ちぬけるようになり、道大会準優勝3回の後の優勝となったようです。
こう言った兄貴ですが、私の息子も高校野球を遣っていて、先輩としての兄貴達の経 験を少しでも受け継げさせようと、2年前の夏(高2)に一緒に札幌に行って兄貴か ら直接話しを聞かせたのでした。
今の時代、スパルタは通用せず、如何に遣る気にさせるかと思います。当時は私も半 分以上はインドだったのですが、息子達と一緒に夫婦で合宿に参加し、練習試合を4 時間(2試合)ビデオを撮って「監督や先輩に指導して貰う前に自分達でこのビデオ を見て、どうすれば上手くなれるか研究しろ」と言い残して私はインドへ行ったので した。
高校野球の場合は素質も確かに必要ですが、何と言っても指導者と後援組織と思いま す。南高の場合はOBの松田監督の優れた指導力と後援組織がここまで南高の野球を 引き上げて行ったのだと思います。
茨城県では取手二校の木内監督ですが、PLに勝って優勝した後、常総学園でも全国 制覇しているし、その後も茨城代表又はその近くまで行ってます。今年も準優勝でし た。
悲惨な事件が絶えない今日この頃ですが、そうさせている大きな流れに負けず正道を 見つけていく努力が大事なことであり、また其れは必ず報われるものとの思っていま す。
そんな意味からも母校の後輩には力一杯のプレーをして欲しいし、皆で応援したいと 思います。高校野球は勝負の結果でなくて、1年間の練習の成果をどれだけ本番で出 せたかだし、その後の選手の人生への通過点にすぎないとの思いです。

南高健児は玉藍城、血は踊る〜、血は踊る〜 ・・・
フレー、フレー、み・な・み

札南野球部の活躍について、村井君より(2000年8月1日)

角田君、色々と南高の歴史を教えてくれてありがとう。
昔の一中は何かと覇気のある学校だったと先生がたから聞かされましたが、それ以来の快挙ですから卒業生としては文句なくうれしいですが、特に野球部に少しでも関係していた人には感無量の出来事でしょう。
会社に南高の野球部にいた浜というのがいて、これが仕事も出来て、とても楽しい奴ですが残念な事にアルゼンチンの現場に行っています。
早速知らせて悔しがらせてやろうと思っています。

南高野球部OBとして―声援ありがとう、佐々木忠繁君より (2000年8月6日)

南高野球部甲子園出場、お祝い飲み会の誘いが相次ぎダウンしそう。
朝野球の、クラブチ−ム(15年以上前ですが)に所属していた関係で、(全道大会で優勝もある)のメンバ−が、私以上に喜んで乾杯の連続。
当日、札幌市郊外の芸術の森の芝生に大の字になり、実況放送を前の日に、勝利を確信してススキノで午前様、(二日酔いでした)
確信の理由、伝統的にパワ−のチ−ムには強いのです。
パワ−のチ−ムは、頭の野球には弱いのです。
巨人がヤクルトの古田捕手の頭脳に 負けているのと同じです。
だから、PLとの対戦も楽しみです。
頭の野球 が、どこまで通じるのか。ひょっとするかも。
OB会のメンバ−として、会費を払うだけでしたが、ここ数年は球場に足を 運んで応援していました。
チ−ムも50人以上のメンバ−がおり、15名であっ た当時を思い出し、今ならレギュラ-にならなかったと思います。
札幌地区予選の決勝戦で、札幌商業と対戦し1対0で負けたのですが、 翌日の新聞に、ファ-スト佐々木の判断ミスと載っていたのも思い出です。
伝統の力って、目には見えませんが生きているんですね。
当時から、先輩に練習量は他校の半分しか出来ないのだから、頭の野球を やれとしつこく言われていました。
ところで、現南高の校舎は、それはそれは、 立派で、卒業後に一回立て直したのですが、それも取り壊されホテルのような 校舎になっています。
グランドも素晴らしいものです。当時より狭くなったが。
素晴らしい後輩の、活躍を期待しています。(仕事の関係で、応援に行けず)
札幌は、今日は雨でも過ごしやすい気温です。
締めです。南高打倒PLを、南高旋風を甲子園に、エ−ルを送ろう。

拝啓 松尾雄治 殿 角田君より (2000年8月10日) 

貴方の番組「ピテカンワイド」は車で出張の折りなど時々聞いてましたが、貴方の輝かしい経験に基づいたコメントは、なるぼとと思って聞いていたのでした。
所が10日の「甲子園見どころ紹介」で発した貴方のコメント「大量リードされている中でゲラゲラ笑っているのは如何なものか。
第一相手に失礼ではないか」と札幌南高を評した言い方はそれこそ如何なものかと思います。
貴方はこの試合をずーと見ていたのでしょうか。
たまたまその場面を見かけたとしても、序盤のエラーからみで大量点を許し、6回以降はエラーも無くPLを1安打に押えていた中での笑顔と知ってのことでしょうか。
そして高校野球での場面と踏まえての言葉でしょうか。
松田監督が生徒を盛り上げ、普段の力を引き出したからこそ、引き締まった終盤の試合展開になったのだと思います。
札幌南は中継で報じられたいたように、毎年東大入学を10名以上輩出している進学校です。
高校野球は出ては負けのチームだったのを10年ほど前に後援会が出来、生徒の自主的活動を重んじた練習をモットーに最近8年で道大会で3度の準優勝の後の甲子園でした。
野球を目的に素質ある者を集めて甲子園を目指しているチームとは違います。
スパルタ・ラグピーで遣ってきた貴方にとっては牽制で刺された位のミスしか無かったPLの野球が理想かもしれません。
また巨人の松井が高校でランナーも居ないのに全打席敬遠した監督は素晴らしかったと、貴方も思う方でしょう。
でも高校野球は飽くまでも教育の一環だと思うのです。
松井を敬遠した投手のその後の人生はどうなっているのでしょう。
あの時の監督はその投手の人生に対して責任を果たせたのでしょうか。
何れにしても今回の貴方のコメントは、貴方自身を外見からしか物事を見れない薄っぺらい人間であることを見せつけたものでした。
高校野球に対してプロやセミプロの社会人と同じ見かたしか出来ない貴方に、高校野球を論ずる資格はないと思いますよ。
敬具

恒ちゃんへ、 村井君より (2000年8月13日)  

お子さんが野球をやっていたのでは今回の南高の甲子園出場はとりわけ感慨深く 楽しんだ事でしょうね。
その感慨がもう少し続けば良かったと思いますが南高の 選手がいかにも聡明そうでみんなで野球を頑張っている様子で勝負は別にして良 かったと思いました(選手の顔つきをみて確実に我々よりも人類として進歩して いると感じましたよ)。
今アルゼンチンの現場に行っている浜直美君(男)とい うのが南高で野球をやっていたとの事を思い出してメールで連絡してあげたら松 田監督とは同期で一緒に野球をやった中だそうです。
遠いアルゼンチンで仕事を しているので南高の試合の結果を知らせてビールのつまみにしてもらおうと思っ ていたのですが第一試合で負けてしまい、残念です。勝負は時の運ですがね。
私は今、横浜市の金沢区の京急沿線の能見台という駅から歩いて15分位の所に住 んでいますが駅のすぐ近くにあるのが今活躍している横浜高校です(西武の松坂 投手の出身校で彼が寄付したと言われるモニュメントが校門の側にあります)。
商店街の人たちは毎年大変な盛り上がりようで応援のバスが出ているようですが 我々はこの地があまり長くない(それでも10年以上か?)事もあり普通にテレビ で観戦する程度です。
高校のグランドは見に行くとあまり広くないなと思ってい たら野球のグランドは別にあって(歩いて30分以上かかる所)行って見ましたが 土日でも練習しており、それを見ている人が沢山います(私はそれほど暇ではあ りませんがスーパーの買い物に付き合う時に通り掛かりに見えるのです)。

お盆休みに帰省して、角田君より(2000年8月15日)

今回お盆休みで帰省した折り、兄が残しておいて呉れた札幌南高野球部の活躍を新聞やビデオで見ることが出来、時差臨場を味わいました。地元テレビのワイド番組での「PLとは事実上の決勝戦」との報道は、「なるほど ザ・ワールド」でした。

道大会優勝時の新聞記事を添付HPにしましたので、ご覧下さい。

また、兄が寄贈を受けていた「札幌南高校100年史」より、南校野球部の軌跡を追うことが出来ました。その要部を紹介します。

明治35年 札幌一中に遊戯部の一つとして野球部が創設されて練習開始。
大正4年 全国中等学校野球(現全国高校野球)が始まったが、試合となると余りに対抗意識強く応援団のトラブル相次ぐ本道は当時対外試合を禁じられていて本大会に参加していなかった。
大正10年 対外試合解禁。札幌一中は1回戦で対小樽中、7−12で敗退。
大正11年 全道大会準優勝 決勝は対北海中で4−6
大正12年 全道大会準優勝  決勝は対函館商で1−7
大正14年 全道大会準優勝  決勝は対北海中で0−9
昭和2年 全道大会優勝 決勝は対旭川師範で4−3 (参加11校)
      全国大会1回戦 対青森師範で4−1で快勝
            2回戦 対愛知商で3−12で敗退

昭和13年 全道大会準優勝  決勝は対北海中で4−14
昭和14年 全道大会優勝 決勝は対北海中で2−1
     全国大会1回戦 対熊本工で0−8で敗退

昭和15年 全道大会準優勝  決勝は対北海中で0−4
昭和16年 札幌地区大会準優勝  決勝は対函館工で5−8
     戦局ますます深刻、道大会、全国大会共に中止となった。
昭和22年 全国大会復活
昭和23年 札幌第一高校と校名変更。甲子園大会は、高校野球大会と改称
昭和25年 札幌南高校と校名変更
昭和49年 野球部OB会が、「札幌南高等学校野球部六華会」として発足したが、実質的活動はその約10年後から活発となった。
平成3年 40年振りに夏の全道大会に出場し、1回戦 対南茅部8−1で快勝、2回戦 対室蘭大谷3−1で勝利、3回戦 対北照0−4で敗退

平成5年以降は下記の通り
春の大会夏の大会(甲子園予選)秋の大会(新人戦:選抜予選)
平成5年支部優勝,全道ベスト4支部優勝,全道1回戦敗退支部優勝,全道ベスト8
平成6年支部敗退支部優勝,全道準優勝  支部敗退
平成7年支部敗退支部優勝,全道1回戦敗退 支部優勝,全道1回戦敗退
平成8年支部優勝,全道ベスト8支部優勝,全道ベスト8 支部敗退
平成9年支部優勝,全道ベスト8 支部優勝,全道準優勝  支部敗退
平成10年支部優勝,全道1回戦敗退支部優勝,全道準優勝  支部敗退
平成11年支部敗退支部敗退 支部敗退
平成12年支部優勝,全道ベスト8支部優勝,全道優勝,全国1回戦敗退

昭和14年2回目甲子園出場時、全道大会出場の駒谷選手の手記
 本道の王座と全国争覇の代表権二つを賭けた、銃後若人の熱と技の一戦だ。愈々試合は午後2時、久慈主審重々しくプレーボールを宣するや、満場興奮と感激を以って迎う。横島の絶妙なるカーブのコントロールは、北中打者を翻弄し、はたまたバックには、湯谷、坂井の再三の美技あり。いま6回のチャンスを諸君と共にその情景を満喫しよう。
 1死満塁の絶好のチャンス、北中のピンチに満場騒然。両軍ベンチ総立ちの緊張は殺気を含んで、1球1打に全観衆の眼吸い付くうちに、樫見の放ったショートゴロは、遂に横島を帰した。今年の本道中学野球界に北中をリードした劇的場面である。
 おお遂に俺達は幾星霜、無念の涙を飲んだ優勝旗を、この手でしっかりと握り締めることが出来たのだ。嬉し涙が次から次へと止めどもなく溢れ出で、唯もう俺達は互いに抱き合って泣いた。
之でやっと去年の、否々13年間の恨みを報ゆることが出来たのだ。寺尾、吉田両先輩の霊への餞けも立派にすんだ。また僕等の何よりも嬉しかったことは、20年という長い間僕等を育てて下さった伊藤先生を13年振りで、しかも同じ函館でやっとお喜ばせる事が出来たことである。

 この南校野球部の歴史を見ると、第1回甲子園出場前に3回の準優勝があり、2回目の甲子園出場前後にも3回の準優勝、今回も3回の準優勝後の甲子園であった。今回の盛り上がりの元となった昭和49年の後援会発足は、現監督の松田晃氏の上智大学への推薦入学が切っ掛けであり、その後に後援会活動が活発化したのも松田晃氏が母校に着任し彼の働きかけによるものだった。松田晃氏は平成8年に監督に就任し、選手中心の練習方針により、今日の成果として実ったと言える。
 こう見ると高校野球は素質ある生徒の存在は必要だがそれで十分とは言えず、何と言っても指導者次第と言える。十有余年の松田監督の努力に敬意を表すると共に、今後の母校野球部に期待したい。

六華だより 甲子園大会出場 記念号 抜粋(2000年10月1日)   (表紙) (応援写真)

”青い”気持ち  野球部監督(南24期) 松田 晃

 大学1年生の夏ごろ、高校の教員になりたいと強く思うようになった。そして、”青い”ことにいつかは南校に赴任し、母校を甲子園に出したいと一人夢を画き始めてしまった。生来の口の軽さからまわりにもそういう話しをしていたらしい。(”らしい”というのは、私自身は全く覚えていないのだが今回の出場で当時の友人たちに『オマエの昔からの夢叶ってよかったな』という言葉をかけられるからだ)

 遠い存在だったが甲子園が手の届くかんじになってきたこの何年間。3度決勝で敗れ、「オレの運はここまでなのかな」「このチームで勝てないならば…」と弱気になることもあったがそれも一瞬。多くの人の励まし、なぐさめ、叱責、陰口?がエネルギーになった。今年ようやく女神が勝たせてくれた。

 甲子園のベンチから電光掲示板にうつる「札幌南−PL」の文字を見ていると、不思議なことに自分の息づかいがやけにはっきりと意識され、自分の耳に大きく聞こえてきて、ほんの何秒間だったのだが全く一人の世界を感じた。(心理学に詳しい人がいたらこの時の私の精神状態を教えて下さい)

 35000人の前での野球。エラーしたこと、打てなかったこと、三振を5つとったこと、ヒットを5本打ったこと…。ありとあらゆること含めて、生徒たちと心底楽しめた2時間だった。この時間を共有できたことに感謝します。

 これからも”青い”気持ちを持ち続けていきたいと思います。

試練を乗り越えて  主将(3年) 田畑 広樹

 「今回もムードで。」ラベンダー色の大応援団に後押しされて僕等はホームベースにかけ寄った。甲子園に自分が立っている。まさに夢のようだった……。

 三期連続一回戦負け。今まで自分たちがやってきたことを全て否定されるような感覚を味わった。しかしそこにはもう恐れるものは何もなかった。一人一人が今チームに出来ることは何か、欠けているものは何かを考え始めた。自分自身の中でもっと野球を心の底から楽しみたいという気持ちが強く、楽しめる雰囲気作りに力を注ぎ、札南野球がどのように作られていったのか追求することによって、進化させるための土台を作ろうとした。

 そして僕は「甲子園で札南野球をする」という目標を立てた。道内の強豪校には札南野球が通用することを先輩達の力で切り開きたかった。その時から甲子園出場というのは一通過点になっていた。

 今、甲子園に立っている。去年の僕等から誰が想像出来ただろう。夢のような夏はあっという間に過ぎてしまった。これからは甲子園は夢ではない。また札南に新たな試練を与えた。再び、応援を含めた全員野球を甲子園でくり広げるのも遠くはないだろう。母校を愛するみなさんの応援ありがとうございました。

My Dream ”甲子園”  投手(3年) 皆方 等

 7月27日、「道内bP進学校の札南で甲子園に出場する」という自分の夢をかなえることができたのですが、最初は実感がわかなく、こんな自分が甲子園のマウンドに立っていいのだろうかということが頭をかけめぐりました。しかし、現実となった8月4日の甲子園練習では本当に幸せを感じました。

 そして、8月9日、35000人という大観衆の中でマウンドに立たせてもらいましたが、意外に緊張せず落ち着いて投げることができました。甲子園でプレーが出来て満足するのではなく、全員野球で勝つことを木費用に投げたのですが、期待に応えられず7失点。しかし、思いきり投げてどこまで通用するかを試せたし、得意のスライダーは通用したし、あれほど下手だったけん制も練習した成果を出すことができ、嬉しかったです。PL学園に勝って、全国的に有名になりたかったのですが、最後まであきらめず、楽しく投げることができたのは、本当に幸せだなと思います。自分一人でなく、チームメート全員、指導して下さった先生、そして大応援団など、たくさんの人達のおかげで夢の舞台に立つことができました。本当に心から感謝しています。応援ありがとうございました。


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